トリ・アングル INTERVIEW

俯瞰して、様々なアングルから社会テーマを考えるインタビューシリーズ

vol.40

令和の橋は何をつなぐのか?

インフラとして非常に重要な役割を任う「橋」。その一方で、絵の題材、映画や小説の舞台、観光スポットなどとしても、昔から世界的に人気があります。それは姿の美しさだけでなく、「川や谷などの障害を越え、異なる場所と場所とをつなぐ」という橋本来の役割に、私たちがドラマを感じてしまうからなのかもしれません。人、文化、希望、未来……と、いつの時代もさまざまなものをつないできた橋。令和の今、改めてどんな役割を担うのか、近年課題となっている老朽化の問題も含めて、橋との関わりの深い方々にお話をうかがいました。

Angle A

前編

異なる世界をつなぐ橋から生まれる物語

公開日:2022/12/16

作家・ドイツ文学者

中野 京子

名画に隠された恐怖を解き明かし、絵画の新しい楽しみ方を提案した『怖い絵』シリーズで知られる中野京子さんの著書には、古今東西の橋をテーマにした『怖い橋の物語』があります。古くから人々の暮らしに根ざしている橋には、知られざる由来や魅力的なエピソードが満載。橋をめぐる物語について、さまざまな話をうかがいました。

なぜ橋をテーマにしたエッセイを書こうと思われたのですか。

 だいぶ前になりますが、知人の技術者が書いた橋の専門書を読んだことがありました。私にはとても面白かったのですが、なにぶん専門書なので一般の人にその魅力は伝わりづらい。構造や技法の解説だけでなく、もっと皆の興味を引くようなエピソードがあればいいのにね、と友人に話したところ、「じゃあ自分で書いてみたら」と勧められて、確かにそうだなと。新聞連載から始まったのですが、最初になにかエッセイを、と頼まれたときそのことを思い出しました。それが1つのきっかけです。

以前から橋に興味をお持ちだったのですか。

 拙著(『怖い橋の話』)のあとがきにも書きましたが、若かりし頃に「大きな歩道橋を、高らかに笑いながら渡っていく」という、まるで夢占いのお手本になりそうな夢を見たのです。ちょうど人生の転機を迎えていた時期だったので、吉夢だと励まされました。この夢の記憶が鮮烈だったので、橋への関心はずっと持ち続け、観光に行くほか橋に関する本も何冊か読んでいました。

著書では、「橋は有史以前からあった」と書かれています。

 たまたま木が倒れたり石が落ちたりして川に自然の渡しができ、今度は自分たちの手で木を切り倒して丸木橋にしたのが起源、とされていますから。ただ建造物にとらわれずにイメージすると、橋といえば「虹」です。新聞連載の第1回では、ギリシャ神話に登場する虹の女神イリスを取り上げました。虹はすぐ消えてしまうから、神々の伝令役であるイリスは、さっと地上に降り立って必要な仕事を迅速に済ませて帰ります。天空高くアーチをえがく虹は、神々の世界と人の世をたまさかに繋ぐ七色の橋なのです。
 ギリシャ神話に限らず、虹と橋を同一視する神話や伝承は世界各地にあり、橋は2つの異なる世界を結ぶもの、というイメージはどの民族にも共通しています。だから物語の舞台になりやすいのですね。日本でも古事記の国産み神話に登場する「天浮橋」は虹のことと言われていますし、鬼退治伝説で有名な渡辺綱が鬼の腕を切り落としたのは、京都堀川に架かる「一条戻橋」ということになっています。橋じゃないと成立しないと言いますか、適当な場所で戦うのでは面白くない。橋だから説得力が生まれるのです。

現在の一条戻橋(京都府)

橋は神々をはじめ異界の者がアクセスする場でもある、と。

 異界の者だけでなく敵もそうですよね。こちらから行けるというのは、向こうからも来られるということ。だから日本の大井川は、敵の侵入を防ぐため明治になるまで橋を架けなかったそうです。戦争映画でも敵の進軍を食い止めるシーンなどには、かならず橋が出てきます。最近の映画で私が興味深かったのは、『ブリッジ・オブ・スパイ』という作品です。これは冷戦時代に実際に行われていた米国とソ連の諜報員の交換の中で、もっとも有名なU-2撃墜事件を扱ったもの。舞台となったドイツのグリーニッケ橋は、東ドイツと西ベルリンの境界線が通るところにあり、真ん中のごく狭い部分が中立域とされました。冷戦時代の44年間、ここで実に40人近いスパイが交換されたそうです。

まさに西と東をつなぐ橋だったのですね。

 最近、と言っても2015年のことですが、ロシアとエストニアそれぞれにスパイ容疑で拘束されていた2人が、国境の川に架かる橋の上で交換されたというニュースもありました。この時代になお、橋という象徴的な場が使われるなんてと興味をかきたてられました。
 戦争をめぐる逸話では、徳島県鳴門市にあるドイツ橋も忘れられません。ここには第一次世界大戦中、ドイツ人捕虜の収容所があったのですが、捕虜たちはとても人道的に扱われ、町の人々との交流も含めて素晴らしい関係を築きました。収容所では母国での職業を活かした捕虜たちによるパン工場やビール工場などが運営され、新聞まで発行されて、まるで1つの町のようだったそうです。ドイツ橋はそんな捕虜たちの中から有志が力を合わせ、町のために自発的に造ってくれた小さなアーチ型の石橋です。今は川の水が涸れ果てて通行もできませんが、かつては谷川の支流が勢いよく流れ、幾度も木橋が崩れ落ちていたので、当時日本にはなかった石積み技法で頑丈な橋を架けてくれたのです。まさに友好の架け橋そのものです。

日独友好の象徴となった鳴門ドイツ橋(徳島県)

なるほど、石橋なら崩れませんからね。

 ヨーロッパというのは基本的に要塞都市なのです。中世の城砦は防御優先で堅固そのものですが、城の外からも敵の侵入を阻むためさまざまな仕掛けが施されました。橋に関しては通行を遮断する跳ね橋がよく知られていますが、イタリア・ヴェローナのスカリジェロ橋のように、射手が敵を狙い撃ちする足場を側壁に取り付けるなど、橋自体を要塞化した例もあります。

要塞化した三重眼鏡橋のスカリジェロ橋(イタリア・ヴェローナ)

 当然、頑丈でなければならないので、13世紀に入ってまもなくヨーロッパでは石橋が主流になっていきます。イギリスの伝承童謡・マザーグースに「ロンドン橋、落ちた」という有名な歌がありますね。あの歌詞は、ロンドン橋を木と泥で造ったから流された、煉瓦と漆喰で造っても崩れてしまう、銀や金だと盗まれる、では石でならどうか、それならいつまでも大丈夫――といった内容です。諸説ありますが、この歌は石橋ができたのを機に作られたと言われています。

橋の歴史においては日本が木橋、ヨーロッパが石橋というのが両者の違いですか。

 そうですね。特に石橋ならではと言えるのは、橋の上に家やお店が建っていたことです。周りをぐるりと壁に囲まれた要塞都市では人口が増えるにつれて土地が足りなくなり、またヨーロッパの人は合理的なので、橋の上に作ればいい、となったのでしょう。フィレンツェ最古の橋と言われるポンテ・ヴェッキオ橋は、今もお店が軒を連ね、観光名所になっています。

橋の上にお店が並ぶポンテ・ヴェッキオ橋(イタリア・フィレンツェ)

 私がポンテ・ヴェッキオを訪れたのは初めてヨーロッパを旅した時で、知識はありましたがイメージが全く湧かなかったので、「お店がポツンとあるのかな」くらいに考えていた目の前に、まるで浅草の仲見世のような賑わいが広がっていました。日本人にとって橋とは見晴らしがいい場所と決まっているので、かなり違和感を覚えました。日本の橋は木製だからというだけでなく、橋を架ける川も急流が多いため、割とすぐ流される危険があります。だからヨーロッパのようにはなりません。

今そうした橋は、ほとんど見られないですね。

 馬車が通り、交通量も多くなって段々なくなっていきましたが、ポンテ・ヴェッキオのように観光地として残しているところもあります。また、「パフューム ある人殺しの物語」という、18世紀のパリを舞台にした映画を最近観たのですけど、橋の上に建物がずらりと並ぶ情景をリアルにCGで再現していて面白かったです。映画の中で主人公が深く関わった橋の上の香水店が過重により崩落するシーンもあり、そんなこともあっただろうなと思いを馳せました。

「新しい橋」という名のポン・ヌフ橋(フランス・パリ)

 ひとつ腑に落ちたのは印象派のモネやマティスをはじめ、多くの画家が好んで描くポン・ヌフ橋。1606年に建てられたパリに現存する最古の橋ですが、「ポン・ヌフ」とはフランス語で新しい橋という意味です。なぜそう呼ばれたかというと、最初から店などを建てないことを前提に造られた初めての橋だったからだそうです。それまで当たり前のように橋の上には建物があったのに一切なく、視界を遮られずに遠くまで見渡せる。それが、当時の人々にとってはものすごく新鮮で画期的なことだったのでしょう。だから新橋という名前が浸透していった。そうした背景を知るにつれ、一つひとつの橋に寄せる愛着も増していきます。

『怖い橋の物語』(河出文庫)
なかの・きょうこ 北海道生まれ。作家、ドイツ文学者。西洋の歴史や芸術に関する雑誌連載、書籍などの執筆のほか、講演、テレビ出演など幅広く活躍。著書はベストセラーとなった『怖い絵』シリーズ(角川文庫)をはじめ、『名画の謎』シリーズ(文藝春秋)、『名画で読み解く王家12の物語』シリーズ(光文社新書)、『怖い橋の物語』(河出書房新社)など多数。2022年はコニカミノルタプラネタリウム「星と怖い神話」を監修・解説。
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