トリ・アングル INTERVIEW

俯瞰して、様々なアングルから社会テーマを考えるインタビューシリーズ

vol.27

復興の先へ!震災10年のまちづくり

岩手、宮城、福島の3県を中心に甚大な被害をもたらした東日本大震災の発生から10年が経過する。2011年3月11日、震災に伴う津波や建物の倒壊などで死者、行方不明者、関連死を含め2万2000人以上が犠牲になり、街並みはがれきの山へと一変した。しかし、この10年間で住宅や道路、鉄道などのインフラ整備が進み、被災3県は浸水地域の1万8000戸の宅地整備を終えている。未曽有の被害でゼロから始まったまちづくりを振り返り、復興の現在地と未来を探る。

Angle C

前編

原発被害からの復興…街づくりは天命

公開日:2021/3/23

福島県浪江町

まちづくり政策顧問

清水 喜代志

原子力災害に伴い、立ち入りが制限された7年間の空白を経て、福島県浪江町が復興へ向けて歩みだしている。国土交通省OBの清水喜代志さんは、まちづくり政策顧問として、この町に再び賑わいを取り戻す活動を続ける。阪神大震災や台湾の921大地震でも街の復興に関わった清水さんは「震災復興の街づくりは天命」と言い、これまで経験のない原子力災害からの復興に第二の人生をささげる覚悟だ。

東日本大震災とのかかわりは

 震災発生時は静岡市の副市長でした。静岡市から消防士や看護師などを現地の応援に派遣する仕事を担当していました。10日交代で次の応援チームを編成しており、3回目の派遣部隊の一員として、私も宮城県気仙沼市と仙台市の現場に入って避難所を手伝ったり、震災がれきを燃やす仕事などに関わりました。静岡市副市長としての2年間の出向期間を経て、国交省都市安全課に戻ってからも、高台移転問題など被災地の街づくりに関わりました。

浪江町の街づくりに取り組むきっかけや、当時の街の様子は

 復興庁からの要請を受けて、応援の人員を現地に派遣する中で、街づくり分野の専門家が足りなくなり、国交省OBの方々にも声をかけました。皆さんに快く引き受けていただきました。「浪江町にもぜひ」と言う話があったとき、「私が行こう」と心の中で決めていました。退官を待って現地に応援に入りましたが、当時の浪江町は、まだ避難が解除になっていませんでした。現地に行くには、仙台まで新幹線で行き、常磐線とバスを交互に乗り継ぎ、何時間もかかりました。町役場も二本松と浪江の二か所に分かれていて、浪江町には、郵便局も銀行もスーパーも、生活に必要な施設は何もありませんでした。

浪江町には自分が行くと決めた理由は何ですか

 国交省や出向先の地方自治体で、街づくりの政策を担当する立場から、阪神大震災や台湾の921大地震など、これまで多くの災害復興に関わってきました。東日本大震災が起こり、復興に取り組む中で、「震災復興は自分にとっては天命ではないか」と感じるようになったのです。浪江町をはじめとする福島県の浜通りの復興は、これまで経験した自然災害とは全く違う原子力災害の特異性があります。他の人には頼みにくいという気持ちもありましたが、それよりも、この難しい課題に第二の人生をかけて取り組んでみたいと思いました。

原子力災害の特異性とはどのようなものですか

 自然災害の場合は、インフラと住居の復旧と並行して、職場と生活サービスも順次再開し、ほぼ元の生活に戻れることが多かったです。しかし、原子力災害では、住居やインフラの被災はむしろ軽いのですが、雇用、学業、買い物、医療、福祉・介護などあらゆる人の営みが町の全域から消え、しかも、町内には戻れない避難先での生活が固定されてしまいました。このような状況が7年も続き、避難先の生活が仮のものから徐々に実体のものになってきます。新しい就職先を見つけたり、避難先で事業を再開するケースもあります。小さかった子供たちも避難先で進学しています。避難解除されるまでは、住民に戻っていただくには何が必要かを念頭に街づくりを考えていました。しかし、いざ、解除された後も、戻ってくる人は予想を下回る数字で、約1万8000人の人口のうちの1500人程度(2021年3月時点)です。町外に 定着する人が増えれば増えるほど、人がいなければ成り立たない雇用や生活サービスを浪江町で復興することがますます困難になります。街づくりの発想を根本から変える必要があると感じています。

今は、どのような思いで街づくりに取り組んでいるのですか

 浪江町に多くの住民が戻ってきて、元の自宅での生活を再開してもらうことを想定していましたが、特別な理由がないのに、避難先で固定化された生活を捨ててまで、浪江町に戻ってきてもらうのは難しいことが分かりました。 その一方で、震災前に浪江町で生活をしていた人たちが、故郷のことを決して忘れていないことも分かりました。そのひとつが、「相馬野馬追」の夏まつりです。毎年7月末、甲冑に身を固めた500余騎の騎馬武者が腰に太刀、背に旗指物をつけて疾走する豪華絢爛で勇壮な戦国絵巻を繰り広げます。2020年は新型コロナウイルスの感染拡大の影響で大半が中止になりましたが、避難解除に合わせて双葉郡からの相馬野馬追への出陣が再開されたときは、多くの人たちが集まりました。先祖伝来の鎧兜を用意するなど準備は大変ですが、この時ばかりは故郷に帰るのです。19年の相馬野馬追には、地元の小学生が参加しました。夏の暑い中、4~5時間も馬にまたがり、勇壮な姿を披露しました。その表情を間近で見て、心が動かされました。

【相馬野馬追は今から一千年以上もの昔、相馬氏の遠祖とされる平将門が始めたと言われる】

※清水喜代志さん提供

復興へ向けた住民たちの取り組みは

 山形県長井市で酒造りを再出発した鈴木酒造店の「磐城壽」が、浪江町の道の駅にできた施設で酒造りを復活させる計画といいます。魚市場のセリも復活し、水産業者にも活気が戻ってきました。JR常磐線の浪江駅の待合室には、社会見学に訪れた小学生が書いたお礼の手紙が掲示されています。「浪江駅にたくさんの乗客が戻ってくることを願っています」と書いた小学生は、震災発生時はまだ小さく、当時のことは覚えていないでしょう。家族の人から、「いつかは浪江に帰ろうね」と言い聞かされて育ち、遠く離れた避難先での生活が日常になった今でも、故郷への思いは消えないのだと考えると、目頭が熱くなります。浪江駅の待合室を通るたびに、「そういう人たちのために自分ができることを精一杯やろう」と奮い立たせます。街は人がいないと荒れてしまいます。そうならないように、賑わいを少しずつ戻しながら、昔の面影を保ち、離れた場所で故郷を思う人たちが戻りたくなった時にいつでも戻れるような街づくりを考えるようになりました。過疎が進んでいく中で、いかに賑わいを保つのか、浪江町でやれることを見つけていきたいです。戻ってくる人だけでなく、新たに移住して住みたいと考える人たちにも魅力を伝えていきたいです。
※後編は3月26日(金)公開予定です。

しみず・きよし 1958年生まれ、大阪府出身。建設省(当時)に入省。国土交通省都市局街路交通施設課長、大臣官房技術審議官(都市局担当)を歴任後、西日本旅客鉄道建設工事部顧問。街づくりにかかわる中で、阪神大震災や台湾の921大地震からの復興支援を経験した。国交省退官後、現在は福島県浪江町における東日本大震災後の復興まちづくりを支援している。
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