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トリ・アングルINTERVIEW

俯瞰して、様々なアングルから社会テーマを考えるインタビューシリーズ

vol.24温故知新!先人達が作ったレガシー

公開日:2020/12/24

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[ 前編 ]

日本経済の礎を築いた渋沢栄一の功績

國學院大學経済学部教授杉山 里枝

明治、大正時代に活躍した実業家、渋沢栄一は約500の企業、600の社会事業に力を注ぎ、「日本資本主義の父」と呼ばれている。2024年に刷新される新1万円札の顔であり、2021年にはNHK大河ドラマの主人公となるなど、改めて脚光を浴びる人物でもある。渋沢と同時代、国内では三井、三菱、住友、安田などの財閥が成長したが、渋沢はこれら財閥とは一線を画した経営を続けた。彼の生きた時代背景と功績などについて、國學院大學経済学部の杉山里枝教授に話を聞いた。

渋沢栄一は農民出身でありながら、なぜ「日本資本主義の父」と評されるほどの実業家になることができたのでしょうか。

 まず時代背景があります。渋沢栄一は江戸時代末期の1840年に埼玉県深谷市の農家に生まれました。時代は幕末から明治維新、近世から近代へと大きく変わっていくときでした。渋沢栄一の家は農家といっても藍玉の製造・販売などで財をなしており、豪農です。同時期に成長していった三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎は土佐藩の地下浪人(じげろうにん)の出身、安田財閥の安田善次郎も富山藩の茶坊主出身でどちらも貧しい出でした。しかし、幕末は才覚がありチャンスをつかめば大きな成功を収めることができる時代でした。やがて、明治となり、没落する者がある一方で、成り上がっていく者もある激動の時代を迎え、その中で新たにビジネスチャンスをつかんだのが渋沢栄一だったのです。

【日本資本主義の父と評される渋沢栄一】

※国立国会図書館提供

 彼に学歴はありませんでしたが、従兄の尾高惇忠から「論語」を学び、漢学の手ほどきを受けていました。幕末の「尊皇攘夷」の思想に影響を受け、高崎城の乗っ取りを計画しますが中止し、京都に旅に出ます。やがて商才を見込まれ、一橋家の用人への強い推薦を受け、一橋慶喜に仕えることになります。その後、27歳のとき、15代将軍となった徳川慶喜の弟、徳川昭武に随行し、パリの万国博覧会や欧州の実情を見る機会に恵まれます。これが、後に国内で初めての事業を立ち上げていくときの参考にもなったのだと思います。普通は、視察して新しいものを見ても、それを自分の国に取り入れる方法までなかなか考えつかないものですが、渋沢はそうではなかったところが、彼のすごさ、才能・才覚だったのではないでしょうか。

【マルセイユにて徳川昭武のパリ万博使節団一行。後列一番左が渋沢栄一】

※渋沢史料館提供

 渋沢が欧州から帰国した時には、時代は明治となっており、その後大蔵省に入ります。そこで、アメリカのナショナルバンク制度を模範とした「国立銀行条例」の制定を推進します。この国立銀行というのは民間銀行のことです。1872年に条例が制定されると、翌年大蔵省の役人を辞し、第一国立銀行を設立し総監役となり、のちに頭取となります。自ら行政側に立ち新しい仕組みを作り、それを実行するときには民間人となって取り組んだのです。その後、さまざまな起業に携わっていくようになりました。

渋沢栄一の代表的な功績について教えてください。

 代表的といえば、やはり1873年設立の第一国立銀行(現・みずほ銀行)と82年の大阪紡績会社(現・東洋紡)の設立ではないでしょうか。
 銀行に関しては、その後82年に日銀ができましたが、この頃はまだ金融・銀行の仕組みもそれほどしっかりできていませんでしたので、民間ではありますが第一国立銀行が、金融の中枢へ先駆的に入ってきたという状況でした。広く世の中の企業に対して資金提供を行い、金融の要となり、産業を興して国を豊かにすることを目指していました。
 大阪紡績会社は、大規模な紡績企業で日本の産業革命期の先駆けとなりました。産業革命はイギリスでも日本でも綿紡績業から始まりました。

【明治20年代の大阪では紡績会社が次々と設立され「東洋のマンチェスター」とよばれるまでに成長した】

※国立国会図書館提供

 渋沢がいなければ、開放的な銀行、大規模な紡績会社ができるのはもっと後になっていたかも知れず、産業化のスピード、近代化は遅くなったことでしょう。日清戦争を契機に、日本の国際的地位が上がっていきますが、これには産業革命のスタートの時期も関わっているのではないかと思います。また、日本が第二次世界大戦後の復興をあのように短期間で成し遂げられたのは、戦前に産業が進んでいたことも大きな要因だったのではないかと思います。

渋沢栄一が関わった企業は約500、教育・社会関連事業では約600といわれます。

 渋沢は財閥を作ったり、自分の名前をつけた会社を設立することに注力せず、企業に対して設立時のアドバイスや出資、経営者に対する相談役を務めたりしていました。実際の経営は信頼できる人間に任せることが多かったようです。もし自分の会社を作っていたら、これほど多くの企業に関わることはできなかったと思います。
 彼は、それまでの日本になかった未知の産業、しかし近代化には必要な産業、例えば鉄道事業やガス事業、電力事業など国を豊かにしていくものに目を向けました。お金を儲けて経済をまわしながら国を良くする、つまり経済と道徳の両立を考えていたのです。財閥も初期のころは、安田が電力、三井が富岡製糸場、岩崎(三菱)が日本鉄道などに関わっていましたし、安田による鉄道や電力への関わりもみられましたが、やがて商社や銀行、鉱工業などに絞られていく傾向がみられました。財閥と渋沢栄一、それぞれの事業の棲み分けがうまくでき、両者があってこそ明治・大正・昭和という時代があったといえると思います。
 そして、社会事業も立ち上げ、自ら会長となることが多かったのですが、専念するのではなく、やりたいことに取り組み、たとえ慈善事業であっても組織的、合理的、経済的に行わなければならないとしました。渋沢はいい意味で欲が深かったため、これだけの企業や社会事業に関われたのだと思います。
 また人を見る目があったことも、関わった企業がこれほど多くなった一因でもあります。例えば、大阪紡績会社の経営に大きな役割を果たした山辺丈夫は元々ロンドンに留学して経済学を学んでいましたが、彼の才能に渋沢が目をつけ、資金を支援し紡績の技術を学ばせました。そして帰国後の山辺の活躍により、紡績会社の建設と成功に繋がったのです。浅野セメント(現・太平洋セメント)を立ち上げた浅野総一郎や帝国ホテルなどの事業を生み出した大倉喜八郎とも人的ネットワークで結ばれていました。さらに、渋沢が活躍するほど多くの人が彼を頼ってきたためネットワークも広がっていきました。
※後編に続きます。

プロフィール

すぎやま・りえ 1977年生まれ。東京大学経済学部卒業、東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。博士(経済学)。三菱経済研究所研究員、愛知大学経営学部准教授等を経て2018年より現職。ハーバード大学ライシャワー日本研究所客員研究員(2019-20年)。専門は、近現代日本経済史・経営史、比較経営史。主な著書に、『戦前期日本の地方企業』(日本経済評論社)、『日本経済史』(共編、ミネルヴァ書房)、『はじめての渋沢栄一』(共著、ミネルヴァ書房)などがある。