トリ・アングル INTERVIEW

俯瞰して、様々なアングルから社会テーマを考えるインタビューシリーズ

vol.43

心の、社会の「バリア」なんてぶち壊せ!

障害のある人もない人も、互いに支え合い、地域で生き生きと明るく豊かに暮らしていける社会を目指す「ノーマライゼーション」。例えば、車いす使用者用トイレやホームドア等の設備を整えることも、そのための方法のひとつです。しかし、ハード面でのバリアフリーは進んでも、人と人、いわばソフト面でのバリアフリーはどうでしょう。海外の共生社会を経験してきたパラリンピアン、障害者の立場から社会の在り方を考える研究者、いち早く障害者雇用に取り組んできた企業の方々に、日本のノーマライゼーションの実態や課題について話をうかがいました。

Angle A

前編

「障害者」を特別扱いしない環境が育んだ稀代の金メダリスト

公開日:2023/3/22

パラ競泳選手

鈴木 孝幸

パラリンピックに5大会連続で出場し、獲得したメダルは10個にのぼるパラ競泳選手・鈴木孝幸さん。東京2020パラリンピック競技大会では100m自由形の金メダルをはじめ、出場した5種目すべてでメダルを獲得という偉業を成し遂げました。そんな鈴木さんがこれまでの人生でどのように障害や水泳と関わってきたのか、パラアスリートとしての軌跡についてうかがいました。

鈴木さんはいつ頃から水泳を始められたのですか。

 6歳のときに障害を持った人たちも受け入れているスイミングスクールに入りました。保育園のときにもプールで犬掻きのような感じで自己流で泳いでいたのですが、小学校になるとプールが大きくなり、私の障害だと足が地面に着かなくなりました。そういったときにも慌てずに、ほかの子どもたちと同じ水泳の授業が受けられるよう、スイミングスクールに通い始めた感じです。

以来、ずっと水泳に打ち込んできたんですね。

 実はそうでもないんです。そのあとに健常者が通っているスイミングスクールに移ったのですが、ロッカールームやプールサイドでジロジロ見られるようになり、それが気になって4年生のときにやめてしまいました。ただ、小学校では金管バンド部と掛け持ちで水泳部に入っていて、それは楽しかったです。

競泳を本格的に始めたのはいつ頃だったのですか。

 中学生のときは吹奏楽部所属で、水泳は授業で泳ぐ程度でした。しかし、高校に入ると進学コースで授業数が多かったこともあり、身体を動かしてストレスを発散したいと思うようになったんです。それで、高校1年生のときに最初に通っていたスイミングスクールに再度通い始め、そこから競泳を始めて大会にも出るようになりました。競泳を始めた理由はあまり覚えていないのですが、家族の話だと当時の私は「有名になりたい」と言っていて、水泳ならチャンスがあるのではないかということで始めたみたいです(笑)。

では、最初から大会に出るつもりで始めたんですね。

 そうですね。競泳を始めたばかりの頃は、そもそも大会がどういうものかもわからなかったので、とりあえず出てみようと考えました。初めて出た大会でいきなり金メダルを取ることができ、それが快感になってのめり込んでいった感じです。そこからは大きな大会に招待していただいたり、強化選手候補としてパラリンピックの予選に出場したりと、とんとん拍子。当時は泳ぐたびにベストが出るような状態でした。

鈴木さんにとって最初のパラリンピックは2004年のアテネでした。

 当時、日本では対戦する相手がほとんどいなかったのですが(※)、アテネで各国のパラリンピアンに出会い、衝撃を受けました。それまで名前しか知らなかったようなアスリートと実際に競い合い、パラリンピアンたちの身体能力の高さというのを実感したんです。
 ※パラ水泳では障害に合わせてクラス分けがされており、対戦は同じクラスで、かつ同じ種目の選手と行われる。そのため、国内だけではどうしても対戦相手が少なくなる。

世界はレベルが高かった、ということですね。

 加えて、彼らの前向きな姿勢もカルチャーショックでした。というのも、それまで国内で障害のある人に会うと、どこか負い目を感じているような印象がありました。私は「障害者」だということをとくに意識せずに育ってきたので、周囲とのギャップを感じていたんです。それが、パラリンピックのアスリートたちはネガティブな感情を一切持っていなかった。自分と同じ感覚の人たちに出会えた気がしました。

競泳を続ける上で、原動力になっているのはどんなことですか。

 2009年、北京パラリンピックの翌年からは株式会社ゴールドウインに所属しており、水泳の活動も仕事の一部として考えてもらえています。そのため、ドライな言い方をすると、ここまで続けられているのは「仕事だから」というところもあるかもしれません。「成果として報告できるものがないといけない」という責任感が、一つの原動力になっている感じですね。

仕事として「泳ぐことが当たり前である」ということでしょうか。

 もちろん、それだけではなく、いろいろな人から応援してもらえることも大きな原動力になっています。以前は家族や友人たちといった一部からの応援がほとんどでしたが、今では会社の仲間も応援してくれるし、東京大会以降は、今までパラスポーツに興味がなかった人たちからも応援してもらえるようになりました。多くの人たちの応援の声がモチベーションになっていることは間違いありません。

2013年からは英国ニューキャッスルに拠点を移し、トレーニングを積む。

2021年の東京大会では100m自由形で金メダルを獲得されました。

 東京大会は無観客という初めての経験で、ある意味、新鮮な感じがしました。金メダルは平泳ぎで獲った北京大会以来で、しかも100m自由形はアテネから出続けている好きな種目なので、頂点を獲れたのはうれしかったです。

鈴木さんは「障害者」だと意識せずに育ってきたとのことでしたが、お祖母様が「将来、自立できるように」と、健常者と同じように育てられたそうですね。

 私としてはそれが当たり前だと思っていたので何か特別な教育を受けたという感じではないんですよ。保育園から大学まで健常者と同じように通っていたので、ほかの障害者との比較も難しいです。
 ただ、「皆と同じようにはできないだろうから、やらせない」と最初から機会を取り上げられることなく、何でもやらせてもらえたのは良かったなと思います。はじめは思った通りにできなくても、そこから「どうやったら周りの友だちと同じように出来るか」を自分で考えるようになりました。いろいろやらせてもらったからこそ、何にでもトライする姿勢が身についたのかもしれません。

障害のある方が健常者と同じクラスに入って「いじめに遭った」という話も耳にします。その辺りの苦労はなかったのですか。

 「いじめられた」という経験はないですね。もともと負けず嫌いな性格というのもあって、普通に取っ組み合いの喧嘩はしていましたが(笑)。ただ、一度だけ中学のときに私が友人の席に座っていたら、別のクラスメイトがその友人に対して、「あいつがお前の席に座っているぞ」と聞こえるように言ってきたことがありました。でも、友人は「それが何?」という感じで対応してくれて、そこからエスカレートすることはありませんでした。嫌味を言ってきたクラスメイトとも、後々、仲良くなりました。

いじめようとした人とも親しくなれるなんて、鈴木さんのコミュニケーション能力の高さを感じます。

 学校も社会の縮図みたいなところがあると思います。世の中の大半は障害のない人たちであり、障害者もどうしたってその世界で生きていかないといけない。ですから、障害のある人もない人も分け隔てなく、しっかりとコミュニケーションを取っていく経験は大切なのかなと思います。

すずき・たかゆき 1987年生まれ。先天性の四肢欠損。パラ競泳選手。パラリンピック北京大会および東京大会金メダリスト。株式会社ゴールドウイン所属。IPC(International Paralymic Committee:国際パラリンピック委員会)選手委員。アテネパラリンピックに17歳で出場し、以来、5大会連続で日本代表に選出。北京大会以降、日本選手団競泳チームの主将を務める。2013年からはニューキャッスルに拠点を移し、ノーザンブリア大学でトレーニングを積むほか、スポーツマネジメントを学ぶ。現在は同大学院博士課程在学中。2021年、紫綬褒章受賞。
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