トリ・アングル INTERVIEW

俯瞰して、様々なアングルから社会テーマを考えるインタビューシリーズ

vol.40

令和の橋は何をつなぐのか?

インフラとして非常に重要な役割を任う「橋」。その一方で、絵の題材、映画や小説の舞台、観光スポットなどとしても、昔から世界的に人気があります。それは姿の美しさだけでなく、「川や谷などの障害を越え、異なる場所と場所とをつなぐ」という橋本来の役割に、私たちがドラマを感じてしまうからなのかもしれません。人、文化、希望、未来……と、いつの時代もさまざまなものをつないできた橋。令和の今、改めてどんな役割を担うのか、近年課題となっている老朽化の問題も含めて、橋との関わりの深い方々にお話をうかがいました。

Angle B

前編

個性豊かな橋を造り上げた技術者たちの挑戦

公開日:2022/12/23

東京都道路整備保全公社

橋梁担当課長

紅林 章央

隅田川六大橋(相生橋あいおいばし永代橋えいたいばし清洲橋きよすばし蔵前橋くらまえばし駒形橋こまがたばし言問橋ことといばし)をはじめ、東京には歴史的遺産といえる美しい橋が数多くあります。これらの橋がどのような変遷を辿ってきたのか。ご自身も東京都で橋梁の設計・建設に携わってきた紅林章央さんにお話を伺いました。

浮世絵には橋が描かれたものが少なくないですが、当時から日本にはたくさんの橋があったのでしょうか。

 日本全体でいうと、実は、江戸時代にはほとんど橋がありませんでした。その一方で、江戸には300橋ほどもあり、そのうちの120橋程度は幕府が普請した「公儀橋」でした。

橋は幕府が架けることが多かったのですか。

 天下の台所である大阪には物流のための運河が張りめぐらされ、200橋ほどの橋が架けられていたといいます。しかし、幕府が架けたのはわずか12橋。それ以外の橋を架けたのは、大阪商人を中心とした町民です。実は、地方はどこでもそんな感じで、地元の有力者が中心になってお金を集め、橋を架けていた。そういうやり方が昭和の頃まで続いていました。

当時、橋の維持管理はどうしていたのでしょう。

 だいたい10年に1度のスパンで大規模な補修や架け替えが必要でした。公儀橋は当初は幕府が維持管理を請け負ってきましたが、財政が悪化してくると難しくなり、江戸では永代橋、新大橋、大川橋(後の吾妻橋)といった橋の管理を民間に任せることになりました。「維持管理に困り民間に委託する」という現代の行政と同じようなことを江戸幕府もやっていたわけです。
 民間に移行してからは橋の通行を有料にして維持費に充てたりしたのですが、思うように収入が上がらず、メンテナンスが追い付かなくなっていきました。その結果、1807年に永代橋崩落※という惨事が起きてしまいます。1500人もの犠牲者が出たこの事故をきっかけに、橋の管理は幕府に戻され、老朽化した橋の一斉架け替えを行うことになり、結局一度に多額の歳出を生じることになってしまいました。
 ※1807年8月19日、深川富岡八幡宮の祭礼に集まった群衆の重みに耐えかねた永代橋が崩落。死者行方不明者をあわせて約1500人という大惨事となった。

幕府の直轄に戻ったことで、維持管理はうまくいったのですか。

 幕府の財政が厳しいことは変わらないので、今度は江戸と大阪を結ぶ廻船問屋の組合である「菱垣ひがき廻船組合」に任せることになりました。当時、新興の廻船組合に対して菱垣廻船組合は劣勢に立たされていたため、自分たちの既得権益を守ることを条件に橋の維持管理を請け負うと幕府に持ち掛けたんです。

幕府と既存の廻船問屋組合の利害が一致した、と。

 しかし、これにも問題がありました。橋の管理は独立採算になっていて、幕府からの補助金はありませんでした。幕府の指導のもと、米相場で運用しメンテナンスの財源を獲得しようとしたのですが、これが大暴落。結局、破綻してしまい、橋の維持管理は再び幕府の直轄に戻りました。そのまま維新後も、明治政府が維持管理を引き継ぐことになりました。

インフラの維持管理費用は、いつの時代も大きな課題なのですね。明治政府は橋に対してどんな政策をとったのでしょうか。

 近代国家を目指す明治政府は、欧米の橋梁技術の導入を進めました。また、当時の橋は装飾性に富んでいる点も特徴です。東京では東京府(当時)の土木技術者が橋の構造設計を担当し、高欄(橋などの転落防止などに取り付けられる柵)などのデザインは市中の鋳物師に任せていたそうです。明治も末になると、デザインは建築家が担当するようになります。建築家がデザインを担当した最初の橋が、東京の日本橋です。

1911年竣工の日本橋。橋全体はルネッサンス様式(シンメトリー⦅左右対称⦆とバランス⦅調和⦆が重視されたシンブルで合理的なデザインが特徴)とされているが、彫刻などの装飾には和風のテイストも取り入れられている。明治時代を代表する石造アーチ道路橋。(写真は紅林氏提供)

橋に「美観」も求めるようになったわけですね。

 明治時代は建築や美術様式の流行が「アールヌーボー」(繊細な曲線を用いたデザインが特徴)で、東京にはアールヌーボーの橋がたくさん架けられました。大正末期になると、一般的に、世界の美術の潮流が「アールデコ」(直線や形で作られる幾何学模様などが特徴)に移行していきます。しかしながら、その最盛期に、東京で架けられた隅田川六大橋をはじめとする関東大震災の復興橋梁の中にアールデコの橋というのはほとんどありません。これらの橋に採用されているのは「モダニズム」(機能的、合理的な造形理念に基づく建築様式)。20世紀初頭に現れたスタイルで、現在の建築のベースになったものです。橋の美は構造美にこそあると考え、装飾的というよりも機能美を追求した様式になっています。建築もまだモダニズムを取り入れていない時代に、橋にモダニズムが取り入れられました。戦後以降は装飾的な橋がなくなるのは、その傾向がそのまま受け継がれたためです。

アールヌーボー様式の橋・浅草橋(1899年竣工)。アーチスパンドレル(橋の路面と弓なりのアーチ部分との間の部分)にアールヌーボー調の麻の葉のデザインが施されている。現在の浅草橋は関東大震災の復興橋梁として架け替えられたもの。(写真は紅林氏提供)

モダニズムを取り入れた橋も、建築家がデザインを手掛けたのですか。

 そうです。たとえば、東京の神田川に架かる復興橋梁の聖橋ひじりばしは、デザインを担当した建築家の山田守(1894~1966。日本武道館の設計等)のこだわりで側面にアーチの先が尖がった「パラボラ型アーチ」と呼ばれる形の穴が開いています。また、聖橋はアーチ橋の両端に鉄でできた桁橋が架けられているのですが、わざわざ外側にコンクリートを貼り、全体がコンクリートでできているように演出しています。外観上、鉄とコンクリートを混ぜるのではなく、統一感のあるデザインになっています。

聖橋(1927年竣工)。 (写真は紅林氏提供)

建築家が自分のこだわりを追求できるなんて、ずいぶん自由な環境で橋づくりが行われた印象を受けます。

 復興橋梁建設を手掛けた復興局の職員が若手揃いだったからかもしれません。当時、土木行政を担う最も大きな組織は内務省土木局で、復興局は関東大震災の復興事業のために内務省の外局として設置された臨時の部局でした。しかし、内務省土木局は復興局へ職員を派遣しませんでした。
 結局、鉄道省が職員を派遣して、復興事業は鉄道省主導で進められることになるのですが、内務省の人材を使えないため、大学を出たばかりの若い職員を集めるしかありませんでした。それがかえって、大学の研究室みたいな自由闊達な雰囲気を生み出すことになったのではないでしょうか。しかも、あれだけの橋を架ける機会なんて100年に1度あるかないかです。不謹慎かもしれませんが、技術者にとってみれば非常にやりがいを感じる事業だったと思います。

復興事業は鉄道省主導で進められたんですね。

 でも、結果的にはそれで良かったと私は思っています。というのも、隅田川の清洲橋はドイツのライン川にある吊橋がモデルとなっていますし、永代橋も同様です。言問橋もドイツの土木技術者が考案した構造形式を採用しています。
 なぜこうなったかというと、当時は鉄道省はドイツから技術者を招き範としていましたし、エリートたちの主な留学先もドイツを中心にした西欧でした。鉄道省から派遣された職員がいなかったら、あのドイツ式の美しい橋は生まれなかったかもしれません。

ドイツの吊橋をモデルに造られた清洲橋(1928年竣工)。
くればやし・あきお 公益財団法人東京都道路整備保全公社橋梁担当課長。元東京都建設局橋梁構造専門課長。土木工学科を卒業後、1985年に東京都入庁。奥多摩大橋、多摩大橋の設計をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる。著書に『HERO(ヒーロー) 東京をつくった土木エンジニアたちの物語』(都政新報社)『東京の橋100選+100』(都政新報社)『橋を透して見た風景』(都政新報社/土木学会出版文化賞受賞)などがある。
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