トリ・アングル INTERVIEW

俯瞰して、様々なアングルから社会テーマを考えるインタビューシリーズ

vol.12

進む、港湾革命。日本躍進の切り札となるか

AI、IoT、自働化技術を組み合わせた世界最高水準の生産性と良好な労働環境を有する世界初となる「AIターミナル」の実現に向けた取り組みを進めるなど、日本の港湾は世界の最先端を目指している。また、今後も更なる需要が見込まれる物流の分野においても、国際的な競争が激化しており、港湾が大きく変わりつつある。島国ニッポンにおいて、「港湾革命」が国際競争力強化のための切り札となるのか、今後の展望を探る。

Angle A

後編

「ミナトの未来図」華やかに

公開日:2019/11/15

作詞家

松本 隆

作詞家の松本隆さんは伝説のロックバンド「はっぴいえんど」でデビューし、2020年は、作詞活動50周年にあたる。松本さんの歌詞には、さまざまな港が登場している。「はっぴいえんど」は、日本語の歌詞をロックのビートに乗せて音楽シーンを変えた。松本さんの歌詞から港の未来を考えるヒントをいただいた。

これまでの作品には、たくさんの港がうたわれています。

 港には人が集まり、新しい異国の情報が入ってきます。日本は島国だから情報が閉ざされがちです。他の国はどうなっているのか。新しい情報に触れやすいのが港だったり港街だったりします。古いものも好きだけど新しいものも好きで、港街のそういうところが好きですね。港は、人でもモノでも出入りがあるものです。つねに、出会いがあって別れがあります。ラブソングを作る時に作りやすいというのもあります。
 「スピーチ・バルーン」(1981年、大瀧詠一)は、東京から北海道の苫小牧まで船で家族旅行した時の出来事を書いています。隣にいた女の子が泣いていて、その時のことをそのまま歌詞にしました。港そのものを歌ったのが、「冬のリヴィエラ」(1982年、森進一)です。ハワイのビーチをイメージしたのが、「小麦色のマーメイド」(同、松田聖子)ですね。

歌詞に「港の引き込み線」が登場しています。

 「蒼いフォトグラフ」(1983年、松田聖子)ですね。現在の横浜港の「赤レンガ倉庫」の一帯をイメージして書きました。当時、横浜の倉庫街への引き込み線があり、どちらかと言えば、裏さびれた場所でした。ただの倉庫だったところが、現在は再開発でとても華やかになっています。こんな再開発が進んでいけばいいと思いますね。
 「ヨコハマ・チーク」(1981年、近藤真彦)も横浜が舞台です。歌詞の中の「だぜ」は横浜弁です。「ブルージーンズメモリー」(同)もそう。日吉の高校に通っていたので、まさに僕の高校時代を重ねて作っています。あのころの横浜には、米軍将校の宿舎があり、オシャレな雰囲気がありました。僕が子どものころ、東京・代々木公園にも米軍の宿舎がありました。この代々木ハイツが、ジャニー喜多川さんのホームグラウンドでしたね。

【再開発が進んだ横浜赤レンガ倉庫】

株式会社横浜赤レンガ提供

「水平線」といった港や海の景色で印象的な言葉もあります。

 「瑠璃色の地球」(1986年、松田聖子)では、具体的なモデルの場所はありませんが、湘南でよく遊んでいたので、「岬がいくつもあって灯台も何か所かある」といったイメージをつないで作っています。人間の心にはバイオリズムがあるから、必ず波があって下にいく時があります。下に行く時に底までいかないように元気付ける歌です。いろんな人が歌ってくれて、合唱でも教わるから最初から合唱の歌だと思っている人もいるようです。そういうふうに定着するのも歌の残り方です。僕の名前よりも歌が残ればいいかなと思います。

1980年代に生まれた音楽が現在、若い世代から注目を集めています。

 1980年代当時は、本当に馬車馬みたいに仕事をしていました。レコーディングの開始が夜中の12時から、ということも多かったですね。「移動しながら書かないと間に合わない」ということもありました。最高傑作と言われている「ガラスの林檎」(1983年、松田聖子)は、作曲した細野晴臣さんが最初に曲を作ってから作詞をするはずでしたが、「やっぱり松本の詩がないと書けない」と言われ、急きょ、スタジオのソファーで、2時間くらいで書き上げました。若い人たちに「80年代の音楽をどうぞ掘ってください」と伝えたいですね。掘れば金鉱がありますから。

「はっぴいえんど」は、現在もファン層を広げています。

 「はっぴいえんど」は、現在も世界に口コミで浸透しています。「風をあつめて」(1971年)を北欧や中南米からきた人が歌ってくれました。生まれてから長い時間がたって、口コミで世界にじわじわ浸透しているのはうれしいです。
 江戸時代の参勤交代のなごりがあって、東京を日本のすべての中心としてとらえてしまいがちですが、今、世界中の若いアーティストが日本で目指す街は、京都です。そして彼ら彼女ら、若いアーティストが結構な確率で、「風をあつめて」をはじめ僕の作った「はっぴいえんど」の歌を歌うことができます。
 僕は東京で生まれ育ち、子どものころ、神宮外苑で自転車に乗る練習をしました。ただ、あの一帯は再開発が進んでいて、自分のホームタウンという気がしなくなってきたという思いもあります。僕は基本的に根無し草で、あっちふらふら、こっちふらふらするのが好きです。西行も一休も松尾芭蕉も、日本の詩人は晩年、ふらふらしているでしょう。これからも、歌がなくなるということも、詩がなくなることもない。最古の芸術だから。そこは心配していません。

最後に、港のこれからについてメッセージをお願いします。

 海はリゾート、としてとらえた歌詞は、僕の時代の前からありましたが、高原をリゾートとしてとらえたのは、僕の歌詞でした。また、港まで登場して舞台が大仕掛けになっているのも僕の歌詞です。港は旅好きの僕が旅立つ場所でもある。これからも港が発展したらいいなあと思います。港がもっとみんなが集まる場所になってほしいですね。(了)

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