トリ・アングル INTERVIEW

俯瞰して、様々なアングルから社会テーマを考えるインタビューシリーズ

vol.46

命を守る第一歩!すぐにでも自分でできる地震への備えとは?

世界有数の地震多発国・日本。マグニチュード6.0以上の地震の約20%は日本周辺で発生しており、ここ30年の間だけでも「阪神・淡路大震災」「東日本大震災」などの大きな地震が起こっています。その上、マグニチュード7~9と予測される「首都直下地震」「南海トラフ地震」の今後30年以内の発生確率はいずれも70%以上。1923年9月1日に起きた「関東大震災」から100年目となる今年、来るべき大震災から命を守るために、今私たちができること、すべきことは何かを、専門家や被災経験者の方のインタビューを通して考えます。

Angle C

前編

東日本大震災が証明した「福住町方式」の成果

公開日:2023/10/17

仙台市宮城野区福住町町内会

自分たちの町は自分たちで守る。宮城県仙台市の福住町ふくずみまちでは、全国でも類のない町内会による自助・共助をめざす独自の“減災活動”に早くから取り組み、東日本大震災を機に「福住町方式」として大きな注目を集めました。福住町方式の基盤をつくった町内会長の菅原康雄さんと、防災リーダーとして福住町方式を実践する副会長の大内幸子さんに話をうかがいました。

<写真向かって左から>
仙台市宮城野区福住町町内会 会長 菅原 康雄
仙台市宮城野区福住町町内会 副会長・仙台市地域防災リーダー(SBL) 大内 幸子

まず福住町の地理的な特色を教えてください。

菅原:福住町は仙台市東部の宮城野区のほぼ中央に位置する住宅地です。もともとは町の南隣を流れる梅田川という川が運ぶ泥が堆積してできた泥炭地で、最初は商業団地の住居として造成され、やがて一般に分譲されて1971年に福住町になりました。四季折々の自然に恵まれる一方、川よりも低く平坦な土地にあるため、大雨が降ると町全体に水が押し寄せて溜まってしまう、水害の多発地区です。40年近く前に福住町に移り住んだ私も、これまで10数回ほどさまざまな内水被害(大量の雨に対して排水機能が追い付かずに、処理しきれない雨水で土地や建物が水に浸かってしまう“内水氾濫”による被害)に遭いました。特に大きかったのが1986年の台風10号です。200年に一度と言われる大雨により、全戸が浸水する甚大な被害に遭いました。

水害に遭いやすい土地柄が、積極的に防災活動に取り組む背景にあったのですね。

菅原:住民個々の防災意識はよそより高かったと思いますが、町内会としては防災に関して特段の活動はしていませんでした。本腰を入れる直接のきっかけになったのは2002年、私が旅先で関東大震災の古い写真を見たことです。ちょうどその頃、「宮城県沖を震源とする大地震が30年以内に80%の確率で起こる」という予測が騒がれており、私も念頭にあったので、写真の中の悲惨な光景が明日の福住町の姿のように生々しく迫りました。水害はもちろん、地震も「いつ起きるか分からない」のではなく、「いつ来てもおかしくない」ものです。ならば、いつ災害が来ても立ち向かえる町内会を作らなければならない――と、急き立てられる思いが湧き上がってきたのです。

いつ災害が来るのか、「分からない」と「おかしくない」はどう違うのですか。

菅原:「おかしくない」というのはかならず起きる、という覚悟で、漠然とした「分からない」より危機感がリアルです。自然災害の発生を防ぐことは難しいので、災害は起きる、という前提のもと、被害を最小限に抑えるための具体的な取組に力を入れる。これが、私たちが掲げる「減災」の考えです。私は町内会長として「減災の町内会」を作るため、まず福住町独自の防災マニュアルを作成し、総会の承認を経て2003年に自主防災組織を結成しました。マニュアルに基づいて実践したのが、住民の安否を確認するための名簿づくり、毎年行う防火・防災訓練、さらには他の町内会やグループと交流を深め、いざという時に互いに助け合う「災害時相互協力協定」の呼びかけです。

独自の防災マニュアルを作成。

いわゆる「福住町方式」と呼ばれるものですね。そんな普段からの備えが東日本大震災のときに活かされたと聞いています。あらためて震災の時の様子を教えてください。

大内:福住町周辺は震度6強で、梅田川は氾濫こそしませんでしたが、津波によって海から逆流してきた真っ黒な水が猛然と押し寄せました。福住町を挟むように流れ、隣町で梅田川と合流する七北田川ななきたがわでは、海沿いの家が流されてくるのを目の当たりにするなど、凄まじい光景でした。
 地震が収まって私たちが最優先に行うことは、1人暮らしのお年寄りや障害のある方など「重要支援者」の安否確認です。当時は56世帯73名の重要支援者を執行部の役員で分担していましたが、その名簿を保管している会長宅は物が散乱し、停電のためパソコンからデータが取り出せません。ですが普段から支援者の見守りをしていることもあり、お名前も住まいも頭に入っていましたので、問題なく30分で安否確認をし、その後拡声器を持って回り、再度全員の無事を確認することができました。私はその後、近くの指定避難所の高砂小学校に応援に行きましたが、1200人ほどの避難者に対して食料はゼロ。ですから福住町集会所で作ったアルファ米のおにぎりと水を約100人の福住町町民に対して届け、その晩何往復したかわかりません。また小学校は電気が点かず暗くて寒い、ガスも止まりミルクを飲ませるお湯が沸かせない、という状況だったため、赤ちゃん連れのご家庭を優先して集会所に移動させました。集会所では災害に備えて煮炊きができる設備も自家発電機も用意していたからです。

避難所の高砂小学校へお湯を届ける。

菅原:仙台市水道局の資料で近くの公園に飲料に適した地下水槽があることを知り、現地に向かって蛇口を探し当てました。水をバケツに汲み、それを熱湯に沸かして高砂小学校が避難所として閉鎖するまで届け続けました。「熱々のインスタントラーメンが作れる」「温かいお湯で顔が洗える」と大変喜ばれましたね。ただ、集会所は指定避難所ではないため、行政からの物資は届きません。毎年の防火・防災訓練は、「7日間分の食料は自力でまかなう」という想定のもと備蓄を行っていましたが、3日目が過ぎる頃になると内心焦りが募っていきました。でも、まさに4日目の朝、災害時相互協力協定を結んでいる山形県尾花沢市・鶴子地区の人々が駆け付けてくれたんです。トラックに野菜やお米、水、それに手作りのおにぎりやお味噌汁を満杯にして。集会所には100名近くが避難していて食料が底をついたところだったので、本当に助かりましたし感激で胸が一杯でした。さらにお昼には、福住町が協定・交流している市内の町内会や市民団体の方々も続々と物資を届けてくださいました。その中から私たちは1割だけ頂戴して、はじめは近隣の町内会、それから岩手の大船渡市や福島の相馬市など、宮城県外も含めて沿岸部で津波被害が大きかった地域の、指定避難所以外で暮らしている被災者の方々に全国から寄せられた義援金と物資をお分けしました。福住町の被害は軽微で、1人の犠牲者も出さなかったので、少しでも助けになればと思ったのです。

岩手県大船渡市の在宅避難者へ支援物資を提供。

大変な状況の中で最善の対応をされました。成功のポイントは何だったのでしょう。

菅原:1つは町内会の運営に携わる人数が多いことです。福住町の町内会員数はいま432世帯1161名ですが、これに対し執行部は全員で40名。会員に対する役員の割合がこれほど高い町内会は、全国でも珍しいと思います。そのうち副会長は13名で、震災当時は11名でした。マニュアルでは副会長に会長と会計を加えた執行部3役が重要支援者の安否確認を行うことになっており、これだけの人数がいたため、名簿データが使えなくても各自の担当者が数名ずつと把握しやすかったので何とかなりました。副会長は自薦のほか、優秀な会員をお誘いしており、大内さんもその1人です。役付きになると意欲も責任感も高まりますので、副会長の定員上限の20名までは増やしていきたいと思います。

大内:役員数が多いのは、昔からお祭りなどのイベントが盛んで、町内会が親しまれていたことも大きいですね。また、町内会の自主防災組織は「自分たちの町は自分たちで守る」を合い言葉にする全員参加型の組織です。町内会に加入する全世帯が班単位で、「救援物資班」や「給食給水班」など5つの災害対策グループのいずれかに属し、年ごとに担当班がローテーションします。イベントを通して住民の結束が固いうえ、毎年訓練していることもあり、震災の時は集会所での炊き出しや、他の避難所への物資搬送など、皆さん落ち着いてそれぞれの役割を手際よくこなしてくれました。

町内会は5つの災害対策グループで構成(班は毎年変わる)。

菅原:災害時相互協力協定を結んだ他の町内会やグループとの関係で心掛けていたのは、日常的な交流です。災害は頻繁に起きるわけではないので、お祭りや子ども会の行事などもできる限り協力して日頃から友好関係を保っています。先ほどお話しした鶴子地区は豪雪地帯なので、震災の年の1月に雪かきボランティアに行ったばかりでした。また、被災4日目の夕方に駆け付けてくれた新潟県小千谷市池ヶ原地区の町内会の皆さんとは、2004年に発生した新潟県中越地震のとき、矢も盾もたまらぬ思いで連絡を取り、救援物資を届けたことからご縁が始まりました。自主防災活動という「自助・共助」に加え、困ったときに助け合える「他助」のネットワークが広がっています。

毎年の防火・防災訓練はどのような内容ですか。

菅原:訓練を行う場所は集会所に隣接する福住町公園です。ここに仮設トイレの作り方を展示したり、毛布で担架を作って人を運ぶ搬送訓練をしたり、あるいは木材や廃材で“疑似家屋”を手作りし、そこに閉じ込められた人を災害救助犬により救出したりと、毎年プログラムの内容を変え、マンネリ化しないよう工夫を凝らした実践的な訓練を行っています。震災の翌年からは近くの中学校の生徒も参加するようになりました。

担架による搬送訓練に中学生も参加。

 訓練終了後には恒例の豚汁・大芋煮会を開くなど、楽しみ事を沢山つくるのが大勢の方に参加していただくポイントです。いまではすっかり大規模になり、市の消防をはじめ電力会社や防災用品メーカーなどの企業ブースも出展、市内の他の町内会はもちろん、遠い県外から研修として欠かさず参加してくださる協定地域の方もいます。震災後に初めて行った防災・防火訓練の様子は地元紙で大きく紹介され、「防災『福住町方式』に脚光」という見だしから「福住町方式」という言葉が生まれ、定着しました。私としては独自のマニュアル、名簿の整備、全員参加型の自主防災組織、そして災害時相互協力協定の4つが福住町方式と捉えています。

すがわら・やすお  福住町町内会長。獣医師。宮城県塩竈市出身。仙台市役所勤務を経て1985年、福住町に菅原動物病院を開業。1999年、福住町町内会会長に就任。2003年、自主防災組織を立ち上げ、町内会員の自助・共助による防災活動を推進する。2005年、「防災功労者 防災担当大臣表彰」受賞。2013年、総務省消防庁長官より「災害伝承10年プロジェクト」委嘱。現在、宮城大学非常勤講師。

おおうち・ゆきこ 福住町町内会副会長。2003年、福住町に転居し町内会の防災部に入る。東日本大震災後、副会長兼防災・減災部長となり防災部の活動を継続しながら、仙台市地域防災リーダー(SBL)、NPO法人イコールネット仙台(男女共同参画)のせんだい女性防災リーダーとして活躍。せんだい女性防災リーダーネットワーク代表、高砂小学校支援地域本部スーパーバイザー。「災害伝承10年プロジェクト」の語り部として全国各地でも防災講演を行う。
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